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第十九回文学フーリマ

フーリエみたいな標題になってしまい、数学者のほうのフーリエに就ても思想家のほうのフーリエに就ても何事かを綴る能力を平野は持ちませんが、改めて文学フリマに就て綴ります。

十一月二十四日、月曜日、第十九回文学フリマは始まりそして、終りました。この一大行事に携った多くの方々が、何らかの形に振り替った自分の勤労に自分で感謝したに違いありません。勤労においては、人から感謝されるのも快いものですが、自らに謝辞と賛辞を送れるほどのことをなし得たとき、その喜びは最も大きなものとなります。

何らかの形に振り替ったと云って、何に振り替ったのかと申せば平野の場合こう思います、それは、現金です。

端的に云ってそうなります。売ろうとして本を作り売ったのだからです。平野は、持参した書物と引換えに、道ゆく人々に現金を要求しました。その要求に応じてお買上げ下さった方々が幾人もいらっしゃるという事実、この事実がどんな感慨を呼び起すものであるかは、売ってみると身に沁みる処があります。有難いことです。

按ずるに、ものが売れにくいというときその原因には三種類あります。生産過剰であるか、同種の品において質が劣っているか、そもそも不要な品であるか、です。

これらは互いに独立の原因である。そして気になるのは三番目のやつです。

「なすび」や「とんがらし」は、必要な品でしょう。麻婆茄子の個人的な好き嫌いにかかわらずです。「衣服」も必要です。ホモサピエンスは進化の過程でついうっかり体毛を薄くし過ぎたからです。「自動車」も、かかる現代社会となっては今や必要でしょう。唯だ生産過剰なだけです。「ビール」もまた、必要です。例の禁酒法というやつは、アメリカ史における清らかで無邪気な青春時代の黒歴史みたいなものです。

しかし「本」はどうか。どうも、乱暴な考え方で行けば、そもそも不要であるという疑いがある。

《健康な人は本を読まない》という怪しからん格言があります。じつに怪しからん。しかし、そう無碍にばっさり、軽蔑すべき世迷言だとも斬って棄てかねる一面を見て取ることができます。

本をろくすっぽ読まない人生なんて、ほとんど想像を絶する、と平野は思っています。だがなぜそう思うのか。自分の好みと、人生において大切な物事とを、混同しているからでしょう。たとえば、読書が人格の陶冶に不可欠であると云うなら、社会環境またはその他の理由によって文盲文弱の人の立つ瀬がありません。読書は、数ある手段の一つに過ぎない。

しかしそれでもなお、そんなものを求める人がいます。だって読みたいじゃないか、本を。求める人がいるから商売になります。そして商売になり始める辺りから、話がやたらに複雑で難しくなってしまうのですね。

こう考えて来ると、「本」なる言葉遣い自体によって、良くも悪くも考えを規定されているような気がして参ります。だからそれを、「物語」とか「活字」とか「テクスト」とか「娯楽」とか「教養」とか「芸術品」とか「萌え」とか「感動」とか、さまざまに云い換えてみるのも一案です。それによって、「本」という一語に自分が概ね何を含めて考えているのか、少しだけ明らかになるような気がするから。何を欲して本を買うのか。或いは本を売る側は、本と称して何を売っているつもりか。

単純に考えてみても、物語を読みたい人と、テクストを味わいたい人とでは、興味関心のヴェクトルが随分と異なることでしょう。平野の場合は、そうですね、どうなんでしょう、「刺激」。そう答えるのが最も誠実なように思います。読書によって平野は人生に刺激を求めているらしい。それは、手段として適切か否か。

文学フリマの話と云うより、文学フリマをきっかけに考えたことの話になりました。
 
| 平野智志 | 22:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
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