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第十九回文学フリマ

時は西暦二〇一四年十一月二十四日。つまり本日のことですが、文学フリマの第十九回開催に、「窓辺」は出展して来ました。ところでこうした場合、出展で良いか、出店のほうが宜しいか。まあ出展であろうかなと思いますゆえ出展にします。

「窓辺」は普段は「WEB 文芸誌窓辺」を名乗るのだがしかし文学フリマに出るにおいては WEB を取払って「文芸誌窓辺」とサークル名を登録し且つ冊子の標題もまた同じくというほどの周到なる意図を以て発刊を続けているリアル冊子、文芸誌窓辺も、このたびの最新刊を以て、第四号です。

紙は、いいねえ。

いいねえ紙は。八割の頑迷的保守思想と、一割五分の合理主義と、あと残りは美的感覚によって、平野はそう思います。文学フリマに参加するたびいつも思います。冊子をぺらぺらしつつ思います。

客観的に云えば、現代情報社会におけるウェブの発達によって逆照射される形で紙の良さに思い浸るわけですが、だがそれは一体、どうなのか。

エコエコと森林伐採を気にすることをさて措くとしても、そこにはなお、精神硬直が、古い物にしがみ付いて新しい物を軽蔑する度し難い老人の匂いが、感じられはしないか。だから八割の頑迷的保守思想と申すのです。そして、その辺りに就ての平野の見解は、ごくあっさりしたものです。

独立性。その点において、紙というメディアは、他の追随を許さぬ力がある。

この独立性という云い方には、いろいろな意味を込めているつもりです。

たとえば、二度手間がないこと。適切なテキストファイルを適切なアプリで読み出すといった類の相互依存は必要なく、紙は、紙だけで読めます。

たとえば、ちぎれること。書物の一頁を破り取るなんて不道徳なことだという教えを受けて育った人々も多いかと思いますが、そして平野もそんなことは生理的に出来ませんが、しかし確かにこれも紙の特性の一つです。USB メモリを引きちぎれば用をなしませんが、紙は、意味を保ったまま断片となることができます。

たとえば、触れられること。それは、この今の瞬間そこにあり、他でもない当の物体であり、唯一無二である。そういう物に指が触れます。インクが香り、ぱらぱらする紙が巻き起す微風が鼻毛を揺らします。肉体を棄て去る SF 的世界の到来までは、まだまだ当面の間は人類は、肉の虜であることでしょう。

たとえば、議論臭くなって来たからもう止します。単純に云ってこういうことだと思われます、平野は、紙を見て触るのが好き。

道を歩いていて、ねこを見たら、触りたくなるでしょう。それと同じです。その意味において、紙とは、ねこである。

ならば、紙ならば何でも良いのか。紙を見掛けさえすれば見境なく触りまくるとでも云うつもりか。

何を仰いますか。ねこにはねこの都合があるように、紙には紙の都合があります。触って欲しくなさそうな顔付きをしている紙には平野は触りません。

如何にも触って欲しそうな紙をきょろきょろして見付けるのが、文学フリマの場を彷徨するということです。それが当方の勘違いであったり、勘違いとまでは云えないにせよ見解の不一致があったりするのは、その先の話。すてきな出逢いが、時折は、あるものです。

 
| 平野智志 | 21:58 | comments(0) | trackbacks(0) |
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