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第十九回文学プリマ

それは歌う人のことか、ハムの人のことかと一瞬迷う処ですが、本当は迷うに及ばずハムの人は企業違いだからその可能性は除外されます。そうかと云って歌うのも奇妙ですけれどもたとえば、朗読劇の主役女優は、文学プリマと呼べるのではないかと思います。去る十一月二十四日に行われたのは、麗しの文学プリマよりもさらに清らかな、とは半濁音一つぶんという心ですが、そのような催し事でした。

会場を見渡したり見歩いたりして感じるのは、案外にも、色とりどりで華やかだなということです。

文学フリマの「文学」の辺りに敷居の高さ、或る種の軽い怖れを覚えつつも初めて文学フリマに来場した人なんかきっと、皆さんそう思うのではないかしらん。尤もそれも相対評価であって、コミティアから文学フリマへと巡って来た人の目にはさぞかし地味な光景と映ることでしょう。

我ら「窓辺」はどうなのかと申せば、地味ですね。

それはもう歴然と、地味です。ブースの飾付けも地味です。そうしようとしてそうしている次第ですが、と勝手に編集長のを代弁をしてしまいますが、殊に、最新刊「文芸誌窓辺 第四号」の表紙の地味っぷりと来たら全くすばらしいのでして、惚れ惚れするほど美しい。いい表紙です。眺めたり撫で廻したりしたくなる表紙です。平野は、中身には投稿したものの装丁は携わっていないから、下らぬ遠慮などを放擲して臆面もなく褒めちぎることができます。

平野の個人刊『豆本』に至っては地味の極みです。いわゆる CMYK の K のみ、墨一色。ぺかりと白い表紙裏表紙には、豆を転がしてあるだけです。この無愛想な趣がたまらんなと、自分では思っている。

一体に地味なものには、じみっと沁み込むような、如何にも豊かな滋養分が含まれていそうな味わいがあります。谷崎潤一郎の陰翳礼讃ではありませんが、どうも日本人の感性は最終的にはいずれ、モノトーン的、水墨画的、枯山水的、書院造的なる美意識に回帰するのではないかと思われてなりません。云ってみれば老人趣味なのかも知れませんが、その妙味が段々と判って来るものならば、老いもまた愉しで、幸せです。漱石も確かロンドン留学中に、料理も芝居も恋愛も万事につけて西洋人はしつこいことが好きな連中だ、と憤懣に近い不満を漏していました。

突然ですが宣伝をします。

千駄木にある、怪訝なほどまでに愉快なお店、カフェギャラリー幻 さんにて「ブックカフェ窓辺」を開催します。毎度お馴染みのやつが、再びやって参りました。12 月 7 日、日曜日。もうすぐですね。

今回のブックカフェ窓辺のお題は「歌詞」。そこでやることは、多彩にして唯だ一つです。歌詞というものを愉しむ、さまざまな角度から。

その説明だけでは不足だから、どんなことをやるのか、こんなことをやります。

美味しいものを頂く。カフェギャラリー幻さんには趣向を凝らした特製メニューがさまざまありますが、さらに特製、ブックカフェ窓辺のためだけに用意した一品をご賞味頂きます。

お好みの、イチオシの、音源を持寄って歌詞をネタに語り合う。文学的視点から語るも良し、愛を語るも良し、偏愛を語るも良し、溺愛を語るもよしです。

あとクイズして遊ぶ。「窓辺」の小説を書くときのように入魂の、平野式クイズが、完成しましたから皆様に是非ご披露申上げたいと思います。具体的にどんなクイズかと申しますと、たとえば一つには、清春の

そんな次第で、12 月 7 日、日曜日、カフェギャラリー幻にてお待ち致しております。申し遅れましたがわたくし、司会の平野智志と申します。
 
| 平野智志 | 15:33 | comments(0) | trackbacks(0) |

第十九回文学>||▽

フリマと読めなくもないかなと思ったのですが案の定、読めませんね。そう云えば昨日なぜ意味もなくフリマックスと天啓が降りて来たのか今ふと思い当りました。森マックスだ。森鴎外の孫です。そういう面から云えば、じつに文学性豊かな響きを持つ文学フリマという興行が、十一月二十四日、催されました。

道楽とは飲む打つ買うということになっていますが、文学フリマはまさしく道楽です。当日直前の慌ただしさで碌に睡眠も取れていないものだからリポビタン D を飲み、自サークルの宣伝を打ち、他サークルさんの本を買う。「飲む」を理屈付けるために十分間ほど悩みました。

この道楽に耽る動機はさまざまです。道楽なんだからそもそも大した動機なんぞありゃしないという考え方もできますが、それでは面白くないから、動機を考える。

――表現することが生き甲斐だ。

そういう種類の主張はしばしば聞かれますね。泳ぎ続けるまぐろのように、地を掘り続けるもぐらのように、何かを表現し続けていなければ死んでしまう、という風な自己表明をする型の人。

これにはどうも、無邪気ゆえに卑俗なロマンチシズム、芸術至上主義と云いますか、芸術家っぽいワタクシでありたい願望から発して芸術家っぽく我が身を衒いで塗り固めて頑張っているような気配があって、あまり好きになれないのですが、そういう底意地の悪い偏見を抱く平野のほうがどうかしています。お互い様か。

――人と交流したい。

この場合、文学或いは文学らしきものは、手段に過ぎないものとなっています。それをきっかけに知合いを増やしたい、広い意味での人脈を築きたい、そちらが目的だということでしょう。

あわよくば恋人ができやしないかと不埒な欲情を抱いている人さえ、ひょっとして、いないとも限りませんな。そして不埒な欲情とは世界を動かす要因の一つです。世の中から品性下劣な迷惑メールがなくならないことは、人間から性欲がなくならないことと同じ現象です。

それはともかく、文学フリマの場で新たな知人ができるのは単純に、愉しいことでしょうね。だから平野も愉しがっています。

――出世を狙う。

世間に名を知られ人々の称賛を博することを求める、出世欲、名誉欲というこいつもまた侮れない人間の情動です。自己承認欲求なんてしち面倒臭い難しい云い方がありますが、平たく云い直すと、じぶん大好き。そんな処でしょう。

なお自己嫌悪する人もまた、自己を嫌悪できるほどの知性と倫理性を自らに認めているという点で、じぶん大好きである。

白状すれば何を隠そう平野はじぶん大好き人間なのでして、だから、「窓辺」に寄稿したり、文学フリマに出たりと、臆面もなく世間様に対して己を曝しています。尤も、文学フリマによる出世を狙っては別にいません。称賛されれば嬉しがるのみ。出世は出世で、この短くも長い人生、いろいろな追求の仕方がありましょう。

そうした平野とは次元の異なる高い志を抱き、じぶん大好き感覚を何らかの形へと昇華し、文筆を以て身を立てる英気に満ちた人々が文学フリマの場にはごろごろ、いらっしゃるに違いありません。

――文章なら書ける。

つまり他の、楽器の演奏なり、粘土を捏ねるなり、漫画を描くなり、犬の毛を刈るなり、菓子を焼くなり、選挙に勝つなり、織田信成、といった能力は持合せないが、文章なら書ける。ええわたくしこれと云って取り柄も華もない平凡な人間なんでございますけれどもね、文章なら書ける。そのことを云っています。書けるならば、書いてみせたくなる。

平野は前々から不思議に思っています。なぜ、素人漫画家人口のほうが、素人文筆家人口を遥かに超える規模なのか、殊に若い世代においてそうであるのか。だって絵を描くなんて、作文よりも余っ程難しく手間の掛ることでしょう。

絵なら描けるんだけど。そういう人がたっぷりコミケに参戦するのであれば、文章なら書けるんだけど。そういう人がわんさか文学フリマに出陣して宜しい。巧拙は問わずとして何しろ、作文という、これほど取っ付き易くお手軽な作品創出法が他にありましょうや。

と、そう思うような性分だからこそ平野は、漫画は描かず、文章を書くのでしょう。しかし平野にはどうしても、漫画を一本描くことが小説一本書くことよりも容易いとは到底思えません。費す労力が段違いの筈である。五七五七七と文字を並べるだけで短歌は作れるんだぜ、ははあそりゃ簡単だなという風な、ほとんど非礼にも似たたいへん雑駁な意味合の限りにおいて、ですよ。

写真と絵文字にばかり頼りきりの変なブロガーでさえ、少しは何かそこに書いているわけです。元来が作文とは気楽なものです。「何だか簡単にやれそうな気がする順」というのを戯れに、飽くまでも出来映えは無視しての話ですが、羅列してみるならば。

写真、作文、作詩、料理、園芸、工作、それから何やら二つほどすっ飛ばして、漫画。

それくらいの印象が平野の中では漠然とあります。こんなにとってもやりやすい作文! なぜ皆さんもっと作文しないのかしらん。
 
| 平野智志 | 16:50 | comments(0) | trackbacks(0) |

第十九回文学フリマックス

勢いというものが大切かと思いましてね。フリマックス! 意味はない。

十一月二十四日、東京湾岸にある巨大な倉庫のような建物、東京流通センターにて、文学フリマは開催されました。第十九回めにして、これで最後の、「文学フリマ」でした。

なぜなら次からは文学フリマ東京と呼ぶことにすると発表されたからです。文学フリマ東京、文学フリマ大阪、文学フリマ金沢。それで云うと、ックスという名の都市で開催することが決りさえすれば、文学フリマックスは堂々と成立することになります。フリマックス! 意味はない。

文学フリマに限らずですがこうした同人誌興行で入手した物のことを、戦利品と呼ぶ慣わしがあります。

場を戦場と見立てているわけで、その意識にはおそらく、必死になって徹夜気味で憔悴しつつ同人誌を作り上げいざ売りにゆくということ。必死になって怖るべき雑踏の中をかき分けかき分け目当てのサークルさんに辿り着くということ。その両方が底流しているでしょう。そのようにして獲得した冊子ならば確かに戦利品で、扇型に床に並べて写真に撮ってブログに載せたくなる心情は甚だ尤もです。皆さんそれをおやりです。

唯だ文学フリマに関しては、怖るべき雑踏ということは、ありませんね。それは運営側としては幾らか遺憾なことなのかも知れませんが、催しを愉しむ側としてはまことに結構です。文学なんてものに猛然と人が群がるというのも何だかぞっとしない話ですから、至極真っ当な状況と云えます。コミケは殺人的に混雑し、文学フリマはおっとり構える。世の中万事、棲み分けということがありましょう。

この種の興行を体験したことがあるのは平野は、ほとんど文学フリマだけでして、そのせいか、戦利品と呼ぶ気があんまりしません。目の色変えて是が非でも手に入れたい同人誌があるわけでもない。

文学フリマは、偶然の出会いにわくわくする場だと心得ています。だから平野の思いとしては戦利品ではなく、そうですね何でしょう、ぼたもちです。

そう多くもない、十指にて数え切れるほどのぼたもちを、平野は今回手に入れました。今もちょうど部屋の一隅に目を遣るとぼたもちが積み上っていますが、やあ、良かった。

ここは飽くまで「窓辺」の一員としての発信の場ゆえ、個々の冊子に就ての言及はいたしませんが、いいぼたもちと出会えました。飯穂保さんなる人物と出会ったのではなく、良き牡丹餅。ほぼ全部いいぼたもちだったと申しても宜しいほどです。

些か棘のあることを申しますが、皆様、文学フリマで買った本。きっちり全てお読みになります?

なあんだと途中で抛り出す本、ぱらぱらやって終了の本、何となく読む気がしないままに放置の本、そういったものが幾らかありゃしませんか。それもじつは毎回。実際、本というものは商品として顕れるとき、そうなりがちな性質をとりわけ強く帯びています。

本ほど、価値の見えにくい商品はない。衣服や宝飾や什器やらは一目瞭然、ご覧の通りの商品であって、だから衝動買いということもよくやるわけですが、本は違います。レストランの料理は味わってみなければ判らない、その判らなさよりも遥かに強い度合で、本は、判りません。商品として選択される場面において自らの価値をちっとも顔に出さない連中です。

そんなものを衝動買いしてどうするつもりか。

しかし考えてみれば、だからこそ。それゆえにこそ、衝動買いする以外にどんな方法があるか。数十秒間の立読み如きでは何も判りはしません。衝動買いする他ないではありませんか。逆説的な形で以て真に衝動買いするに相応しいという、本とはそんな代物です。

だから今回は、いいぼたもちだらけで、我が心眼が誇らしいような気になりつつ、嬉しくなっています。何しろ、きっちり全て読みましたもんね。そう喋る口の端には餡がくっ付いている。
 
| 平野智志 | 21:40 | comments(0) | trackbacks(0) |

第十九回文学フリーマー、フリーマー

邦題ですとまるで傲岸不遜な消費者がぞろぞろ出て来る話を描いた作品なのかと思ってしまうあの映画、なのかと思ってしまう標題になりました。あれは「vs」を「対」と訳すだけでも随分違ったと思うのですが、当然それは候補に上った筈であって、ゴジラ対モスラみたいな印象になっちまうのを避けたものか。そのような催しが十一月二十四日、開かれました。どのような催しか。

今回は、事情により編集長が、開場前のブース設営だけを監督して帰ることになり、平野独り、現場を守る成行きです。だが、独りと云いましたけれどもじつは、仲間はちゃんと、いてくれました。

まず、オグリキャップがいる。

この辺り平野は何も知らない朴念仁で、モーグリ軍団の主将のことかしらんなどと思い描いてしまうのですが、競走馬だということくらいは知っています。ついさっき編集長は帰ったのだが、ふと気付くと机の上に、オグリキャップがいる。おや、と少し驚きましたが、なるほどとすぐに思い当りました。毛を吹いて分身を作り出す孫悟空のように、編集長は、その黒髪を一本残して吹いておいてから去ったと見えます。オグリキャップは、静かで深い瞳をしておる。オグリキャップは、ふさふさしておる。オグリキャップは、手のひらサイズである。編集長の分身にして、あの娘は可愛い看板娘、という格です。おやそう云えば牡馬だったかな牝馬だったかな。

それから、鯖がいる。

こちらは平野の同居者で、平野が文学フリマに参加するときはつねづね手伝って貰っています。鯖は普段は、平野の部屋のそこいらにある適当な金属質に吸付いて大人しくしているのですが、そうした内気な性格の鯖にとって半年に一度の外出の機会が、文学フリマです。鯖はあんなに内気なくせに、いやむしろその奥床しさが人の心をそそるのか、売子として有能です。鯖の控え目で丁重な、塩気が利き脂の乗ったお客様対応のお陰で冊子が売れることもしばしば。文学なんぞをやろうという人々の集まりですから、セールストークは、あんまり商魂逞しい営業マンみたいなのよりも、鯖くらいでちょうど良いのかなと平野は感じます。「窓辺」の輝ける看板鯖です。

さらに、妖精が現れた。

写真アーティスト 卯月沙梨音さん が助っ人に駆付けて下さいました。手乗りの奇蹄目、魚類の切り身といった諸君の助力もむろん有難いのだが、それだけでは些かの限界があって、困ることもある。席を外しますと置き紙を残して一、二時間、自由に歩き廻る手はありますが、その不在の間の、知人の来訪やら売逃しやらが気に懸る。加えて、ちょいとだけ席を外したいという折に、厄介なもどかしさを覚えます。たとえば、重大であるが珍しくはない切実な生理上の欲求が徐々に高まって来るという場合などにです。そんな折、卯月さんがメルヘンチックにふわふわした歩みで登場なすった。助かった、と平野は思いました。早速ながらとブースを代って頂いて、およそ 120 秒間で生理的欲求を満足させて戻って来ました。すると、一冊売れている。妖精だ、と平野は思いました。

このようにお陰様で、文学フリマの場を乗切ることができました。周りの頼もしい協力の中で、肝心の平野は何をしていたかと申せば、おもに五円玉を磨くことに現を抜かしていました。

なぜ五円玉かという事情は、半年前のこの場でも述べましたが、495 円という価格設定をした冊子があることによります。平野の個人本『豆本』に 495 円と値を付けました。

そういう変な値段だから、お客様が出すものが千円札でも五百円玉でも、或いは百円玉× 5 でも、何だが知らんがたとえ十円玉× 50 だとしても、その返礼においては必ず、ちゃりんと音がすることになります。これを《ご縁お渡し価格》と称す。

やあ今回も、滑りましたね。駄洒落とは滑るために発動するものです。お買上げ下さった方の苦笑ないし失笑と共に、ちゃりーんとご縁が滑り渡ってゆきました。

なるべく少しでも見苦しくないご縁にしたいと思って平野は、閑に任せて、激落ちくんで五円玉をこすり続けていた次第です。如何に天下の激落ちくんと雖も、色褪せた五円玉に対しては、大した効果もなく気休め程度ではあります。しかし気は心だ。何だか指紋に黄銅の粉がたっぷり沁み込んだような気がします。
 
| 平野智志 | 21:15 | comments(0) | trackbacks(0) |

第十九回文学フリーマーケット

文学フリマは文学フリマのまま正式名称であって、文学フリーマーケットなどと称する催しは存在しないことになります。それにアルファベット表記が「bunfree」であることでも有名で、誰もが指摘したくなるその点に就ては公式サイトの FAQ にてわざわざ封じてあるほどですが、そう深く気にせず、入場料がフリーなのだから、とでも考えれば良かろう。そのような催しが、十一月二十四日、行われました。

平野はいつもの習慣として、会場設営から参加しました。

肉体労働です。山と積まれた状態の折畳み机を台車から下し、並べ、山と積まれた状態のパイプ椅子を台車から下し、並べ、という、さほど重労働でもない単純にして他愛のない作業ですがこれが案外、本気でやると、肉体は汗だくとなります。

朝っぱらから汗迸らせて躍動する肉体。これはなかなか結構なもので、清々しい心地がいたします。朝のラジオ体操を本気でやってハアハアするようなものか。譬えが不適切かしらん。そのように汗だくになることが従来の肉体経験で判っていたから、このたび平野は初めて、着替とタオルとを抜かりなく用意して行ったものです。

尤も、そんな湯気立つほどの勢いで肉体を使役するのは当方の身勝手であって、どなたかが「この時間でこれなら余裕、皆さん早過ぎ」との旨を口にしておられました。今回は肉体の数がかなり潤沢でもあったようです。今後、開場設営に参加してみようかしらんとお考えの紳士淑女の皆様におかれては、参加に当って、着替だのタオルだの仰々しい肉体上の構えは要らぬものとご承知あれ。平野が自分勝手に道楽のようにしゃかりき肉体酷使しただけのことです。

全力ラジオ体操的な肉体のひとときを済ましたら、午前十時を以てサークル入場開始、午前十一時の一般開場までの六十分間と知恵と肉体とを使って、ブース設営の時間となります。そろそろいい加減に肉体は影を潜めることにして、ひたすらブースを作り上げます。

このとき、まず何よりも懸念でどきどきするのは、現場搬入の段ボール箱が無事に届いているか否か。

全くこれが心配で心配で仕方なく、自分のブースにいそいそと小走りに駆寄り机の下に目をやって、然るべく箱がつくねんと鎮座していると見て取ること、そして慌ててガムテープをひっぺがし、中を覗き込むこと。これをやって初めて一安心ということになります。

新刊を現場搬入とした場合なんか、事は極めて重大です。カタログには掲載している、ブログで告知している、ツイートは拡散して貰っている、フェイスブックでも何だかよく判りませんがとにかく何かを云い触らしてある。その新刊が、ないとしたら。

つねづね平野は、郵便という現象に深甚なる驚異の念を覚える者です。ぺらり、あんなにも頼りない葉書と称する紙っ切れ一枚が、なぜ、例の赤い箱に無造作に抛り込むだけで、正しく届くのか。つい風で飛んだり、つい袋の底に貼付いていたり、つい亜空間消滅したり、しないものだろうか。

杞憂と嗤われようともやはり、驚異は驚異です。それに杞憂などと云っては郵便屋さんへの侮辱に他ならない。事故を防ぐために、どれほどのシステム的配慮がこつこつと重ねられて来たことか、その歴史の歩みを及ばずながら察することができます。

郵便に限らず、黒毛のねこ、飛脚、顎のたぷたぷした鳥その他においても同じことです。今回まさしく新刊を現場搬入しました。仮にも、もしも、それが何かの手違いで届いていなければ、最新刊「文芸誌窓辺 第四号」はめでたく午前十一時の瞬間を以て完売御礼という断り書きを置かねばならぬ羽目に陥ります。

ああ安心した。

恙なく届いていました。筒がない! これじゃ飾りができないよどうしよどうしよ、と悲痛な叫びを上げるサークルさんがどこかにあったような気がするらしく思えなくもないかも知れないと考えられますが、ともあれ「窓辺」は平穏無事でした。
 
| 平野智志 | 22:38 | comments(0) | trackbacks(0) |

第十九回文学フーリマ

フーリエみたいな標題になってしまい、数学者のほうのフーリエに就ても思想家のほうのフーリエに就ても何事かを綴る能力を平野は持ちませんが、改めて文学フリマに就て綴ります。

十一月二十四日、月曜日、第十九回文学フリマは始まりそして、終りました。この一大行事に携った多くの方々が、何らかの形に振り替った自分の勤労に自分で感謝したに違いありません。勤労においては、人から感謝されるのも快いものですが、自らに謝辞と賛辞を送れるほどのことをなし得たとき、その喜びは最も大きなものとなります。

何らかの形に振り替ったと云って、何に振り替ったのかと申せば平野の場合こう思います、それは、現金です。

端的に云ってそうなります。売ろうとして本を作り売ったのだからです。平野は、持参した書物と引換えに、道ゆく人々に現金を要求しました。その要求に応じてお買上げ下さった方々が幾人もいらっしゃるという事実、この事実がどんな感慨を呼び起すものであるかは、売ってみると身に沁みる処があります。有難いことです。

按ずるに、ものが売れにくいというときその原因には三種類あります。生産過剰であるか、同種の品において質が劣っているか、そもそも不要な品であるか、です。

これらは互いに独立の原因である。そして気になるのは三番目のやつです。

「なすび」や「とんがらし」は、必要な品でしょう。麻婆茄子の個人的な好き嫌いにかかわらずです。「衣服」も必要です。ホモサピエンスは進化の過程でついうっかり体毛を薄くし過ぎたからです。「自動車」も、かかる現代社会となっては今や必要でしょう。唯だ生産過剰なだけです。「ビール」もまた、必要です。例の禁酒法というやつは、アメリカ史における清らかで無邪気な青春時代の黒歴史みたいなものです。

しかし「本」はどうか。どうも、乱暴な考え方で行けば、そもそも不要であるという疑いがある。

《健康な人は本を読まない》という怪しからん格言があります。じつに怪しからん。しかし、そう無碍にばっさり、軽蔑すべき世迷言だとも斬って棄てかねる一面を見て取ることができます。

本をろくすっぽ読まない人生なんて、ほとんど想像を絶する、と平野は思っています。だがなぜそう思うのか。自分の好みと、人生において大切な物事とを、混同しているからでしょう。たとえば、読書が人格の陶冶に不可欠であると云うなら、社会環境またはその他の理由によって文盲文弱の人の立つ瀬がありません。読書は、数ある手段の一つに過ぎない。

しかしそれでもなお、そんなものを求める人がいます。だって読みたいじゃないか、本を。求める人がいるから商売になります。そして商売になり始める辺りから、話がやたらに複雑で難しくなってしまうのですね。

こう考えて来ると、「本」なる言葉遣い自体によって、良くも悪くも考えを規定されているような気がして参ります。だからそれを、「物語」とか「活字」とか「テクスト」とか「娯楽」とか「教養」とか「芸術品」とか「萌え」とか「感動」とか、さまざまに云い換えてみるのも一案です。それによって、「本」という一語に自分が概ね何を含めて考えているのか、少しだけ明らかになるような気がするから。何を欲して本を買うのか。或いは本を売る側は、本と称して何を売っているつもりか。

単純に考えてみても、物語を読みたい人と、テクストを味わいたい人とでは、興味関心のヴェクトルが随分と異なることでしょう。平野の場合は、そうですね、どうなんでしょう、「刺激」。そう答えるのが最も誠実なように思います。読書によって平野は人生に刺激を求めているらしい。それは、手段として適切か否か。

文学フリマの話と云うより、文学フリマをきっかけに考えたことの話になりました。
 
| 平野智志 | 22:00 | comments(0) | trackbacks(0) |

第十九回文学フリマ

時は西暦二〇一四年十一月二十四日。つまり本日のことですが、文学フリマの第十九回開催に、「窓辺」は出展して来ました。ところでこうした場合、出展で良いか、出店のほうが宜しいか。まあ出展であろうかなと思いますゆえ出展にします。

「窓辺」は普段は「WEB 文芸誌窓辺」を名乗るのだがしかし文学フリマに出るにおいては WEB を取払って「文芸誌窓辺」とサークル名を登録し且つ冊子の標題もまた同じくというほどの周到なる意図を以て発刊を続けているリアル冊子、文芸誌窓辺も、このたびの最新刊を以て、第四号です。

紙は、いいねえ。

いいねえ紙は。八割の頑迷的保守思想と、一割五分の合理主義と、あと残りは美的感覚によって、平野はそう思います。文学フリマに参加するたびいつも思います。冊子をぺらぺらしつつ思います。

客観的に云えば、現代情報社会におけるウェブの発達によって逆照射される形で紙の良さに思い浸るわけですが、だがそれは一体、どうなのか。

エコエコと森林伐採を気にすることをさて措くとしても、そこにはなお、精神硬直が、古い物にしがみ付いて新しい物を軽蔑する度し難い老人の匂いが、感じられはしないか。だから八割の頑迷的保守思想と申すのです。そして、その辺りに就ての平野の見解は、ごくあっさりしたものです。

独立性。その点において、紙というメディアは、他の追随を許さぬ力がある。

この独立性という云い方には、いろいろな意味を込めているつもりです。

たとえば、二度手間がないこと。適切なテキストファイルを適切なアプリで読み出すといった類の相互依存は必要なく、紙は、紙だけで読めます。

たとえば、ちぎれること。書物の一頁を破り取るなんて不道徳なことだという教えを受けて育った人々も多いかと思いますが、そして平野もそんなことは生理的に出来ませんが、しかし確かにこれも紙の特性の一つです。USB メモリを引きちぎれば用をなしませんが、紙は、意味を保ったまま断片となることができます。

たとえば、触れられること。それは、この今の瞬間そこにあり、他でもない当の物体であり、唯一無二である。そういう物に指が触れます。インクが香り、ぱらぱらする紙が巻き起す微風が鼻毛を揺らします。肉体を棄て去る SF 的世界の到来までは、まだまだ当面の間は人類は、肉の虜であることでしょう。

たとえば、議論臭くなって来たからもう止します。単純に云ってこういうことだと思われます、平野は、紙を見て触るのが好き。

道を歩いていて、ねこを見たら、触りたくなるでしょう。それと同じです。その意味において、紙とは、ねこである。

ならば、紙ならば何でも良いのか。紙を見掛けさえすれば見境なく触りまくるとでも云うつもりか。

何を仰いますか。ねこにはねこの都合があるように、紙には紙の都合があります。触って欲しくなさそうな顔付きをしている紙には平野は触りません。

如何にも触って欲しそうな紙をきょろきょろして見付けるのが、文学フリマの場を彷徨するということです。それが当方の勘違いであったり、勘違いとまでは云えないにせよ見解の不一致があったりするのは、その先の話。すてきな出逢いが、時折は、あるものです。

 
| 平野智志 | 21:58 | comments(0) | trackbacks(0) |

めづらしい表記、再

いつたいに動植物の名前には漢字表記の揺れがあるもので、ススキを薄と書いてみたり芒と書いてみたりします。カツヲならば鰹、堅魚、松魚と。

カツヲは、かつをぶしにすると宇宙一堅い物質と化すから鰹、堅魚はよく判りますが、松魚はよく判らない。女房を質に置いてもといふあの例の、つまり松竹梅の松の如く珍重すべき、めでたい魚であるといふ心かしらん。初物の時季を心待ちに、待つ。和歌的なる掛詞も含ませてゐるのかも知れません。

表記揺れの代表選手はやはり、ホトトギスでせう。杜鵑。不如帰。時鳥。子規。郭公。探せば他にもまだありさうです。

しかし郭公とは具合悪いですねえ、カツコウなのかホトトギスなのか区別できない。子規といふのも、鳥なのか結核患者なのか区別できませんがそれはそれ、この偉人が我が身をホトトギスに見立てて号したわけですから当然の事態で已むを得ません。昨今の時勢に即して云へば、オードリーと聞いたときにヘプバーンよりもトゥースが先に連想されるのと似た事態です。

それで思ひ出したのですがローマ字でお馴染みのヘボン博士、あの人、ヘプバーンですね。James Curtis Hepburn と綴るさうですが、紛れもなくヘプバーン。如何にも昔の日本らしい、訛り表記です。といふことは、オードリー・ヘボンであり、キャサリン・ヘボンである。まるでヘボ女優みたいで可哀相です。へぼーんとしてゐてはアカデミー賞など到底及びも付かないだらう。

女優から鳥に話を戻しますと、表記揺れに関して他にまだ思ひ当る鳥がゐます。おつ、とり、と書く。乙鳥です。玄鳥とも、また燕とも書く。さうです、あの鳥です。

「おつとり」の件の義務をこれで果したつもりで後は野となれ山となれなのですがそれでは些か無愛想に過ぎるからもう少しだけ綴ります。

玄といふのは唯だ単に身体が黒いからなのだらうと簡単にやつつけて、だが、乙とは。ツバメのどの辺りが乙であるのか。気になる。

真つ先に考へ付くのは、飛翔の軌跡が、といふことでせう。如何にも、乙と、しゆびしゆぱん、と飛ぶやうに見えますね。アルファベットのZに当る意味を託してゐるのではないかと思はれます。平野が思ふだけです。どなたか篤学の方に教へを請ふ。

こんな論じ方をしてゐますがツバメのことを、乙鳥なんて書く場合は余り、ありませんね。平野の印象では九割五分までは、燕です。

どうも昔の文章に於てばかりむやみに顕著に乙鳥で、最近は殆ど見掛けないやうに感じられます。燕の巣なら高級中華料理店に現れますけれども、乙鳥の巣はない。きつと、燕は支那語由来なのに対して乙鳥は日本独自の表記でせう。ツバメを詠んだ俳句で名作と思はれるのを一つ挙げてみます。

高浪にかくるる秋のつばめかな 蛇笏
 
| 平野智志 | 22:49 | comments(0) | trackbacks(0) |

めづらしい宣託

さう立派なやつでなくとも構はない、まともに使へさへすれば良い程度の洗濯機が、三万円で買へるとします。さて世の中には洗濯機が流通してゐますが、コインランドリーもまた普及してゐる。

洗濯機を買ふのが得と判断するためには、如何なる条件が要請されるでせうか。

夫婦に子らも或いは老人もゐる、家庭であれば、得だの損だの云はずに洗濯機である。毎日のことですもの。洗濯機のない家庭とは殆ど想像できないほどですが、それは裏を返せば、洗濯機なる存在が如何に重大なものかといふことを示唆します。

テレビのない家庭、有り得る。掃除機のない家庭、まあ有り得る。冷蔵庫のない家庭、かなり例外的だが事によつたら有り得る。アタックのない家庭、アリエール。洗濯機のない家庭? ないね。そしてそれは、やうやく二十世紀になつてから発明された品物です。

同棲を始めるといふ場合はどうか。これは、腥い話ですけれども、結婚を前提とした同棲かどうかで随分と違ふでせうね。

ふたりの新しい環境をこれから整へて行かうといふ嬉しい話なら、洗濯機である。その嬉しさには、店を逍遥してああだかうだ検討し合ふことの嬉しさも含まれてゐるからです。家具の店とか電機の店とか無印良品の店とかには、どうやらそんなことらしいカップルの姿を見掛けない日はありません。絨毯の柄を巡つて痴話喧嘩をやつたりしてをる。

その方向で行くと、洗濯機が欲しいと同棲相手がもし云ひ出したらそれは何を隠さう、そろそろ結婚を考へようよの合図である、といふ読み解きが可能です。どんなものかしらん。単に近所のコインランドリーが潰れただけのことかも知れませんから、慎重な態度で臨むべし。おつと、りそう的なカップルと云はれる皆様のことならばそんな野暮な心配は無用ですね。

独居生活であれば、洗濯は毎日の必要はありません。五日間にいつぺんくらゐか。ここに於て初めて、コインランドリーとの比較考量が生じることになります。洗濯機三万円。そしてコインのやつは、一回二百円が相場でせう。さあどちらが得であるか。

かうして見ると、そんなことを考へなければならないのは独居者に大体、限られるだらうといふことが判りますね。そんなことを考へそんなことを書き綴る平野もまた、淋しき独居者であることが露見してもゐます。

洗濯に就ての、選択や如何に。

本日は唯だそれが云ひたかつただけなのです。独りで暮してゐるやうな奴はおよそ碌なことを考へない、といふ俗論は案外に正しいらしい。
| 平野智志 | 21:48 | comments(0) | trackbacks(0) |

はづべき間違ひ

すぐれもんは芋羊羹ではありません。驚きましたね(平野が)。

原材料の表示を改めて観察してみれば、そこに薩摩芋とは一切書いてゐない。甘藷とも唐芋ともベニアヅマともむろん書いてゐない。芋羊羹を得意とする店で売つてゐるものだからつい、思ひ込みました。すぐれた職人が、数々の試行錯誤の末にレモンをたつぷり使つてみたところ成功した、芋羊羹の一変種であるに違ひないと独り合点してしまつたのです。

平野は本日に至るまでの数年来、すぐれもんの主成分は芋とばかり思つて賞味し、手土産にし、すぐれた菓子であると主張して来ました。すぐれもんを、称揚するつもりで実際には冒瀆してゐたといふ次第。菓子はすぐれもんであり平野はふつつかもんでした。

突然思ひ出しましたが名古屋地方では、ドラえもんのことを、大層すばらしい存在であるといふ含意で「どえりやあええもん」と呼ぶさうですね。真偽の程は定かならず。

ともあれ、全き誤解の下に論じてしまつたものですから、間違ひは速やかに訂正しなければならん、おつとり刀で馳せ参じる勢ひで、かうして訂正記事を綴つてゐます。すぐれもんの餡は小麦と大豆で作つてある由です。

しかしこれで、平野の舌上の味蕾は、甘藷とさうでないものとの違ひを弁別することさへ出来ない、度し難い程のばかもんであることが露見してしまひました。世界の未来は明るいのですが平野の味蕾は昏い。

忸怩たるものがあります。尤も、平野は、味が判らないといふことを人間の価値の多寡と結びつけるやうな観念が比較的薄い性質で、味が判るなんてことよりは他にもつとずつと大切なことが世の中には、ある。さういふ考へです。ええと、何でも良いのですがたとへば、「まじめ人間はどうも信用できない」といふことが判るか判らないかで、人生に対する構へがかなり違つて来るのではないせうか。

さう云へばナポレオンは、救ひ難い味音痴だつたさうですね。ふむ、英雄色を好むとは巷間よく云はれるところですが、英雄味を好むとは聞いたことがない。英雄とは社会の底辺から身を起すもので、そして美味佳肴なんてものは当然ながら社会の底辺には無縁なのだから、と云へば一つの説明になりませうか。

味が判る、判らないといふ物云ひ自体が、既存上流階層が新興下流階層を軽蔑するためにしばしば用ゐられる手法であつたりして、そもそも胡散臭いものです。だからナポレオンが実際のところはどうだつたのかは判りません。

だが、チーズとジョゼフィーヌとの違ひを弁別することさへ出来なかつたのだから…と考へますと。
 
| 平野智志 | 23:38 | comments(0) | trackbacks(0) |